ブログリンクいただいてる某方が朝青龍のことについてコメントしていたので、私個人のちょっと思うところを。
「日本の大相撲に外国人は不要」
これが私の偽らざる思いである。なぜか。
うまい説明のしかたが見つからないのでひとつの例を出したい。
2000年シドニーオリンピック。柔道100kg超級決勝。
思い出す人もいるだろう。
日本の篠原がフランスのドイエに誤審で負けた試合である。
この試合を見ていた多くの日本人は怒りを覚えただろう。
この試合に関し篠原は「自分が弱いから負けた」とそれ以上言明せず、潔く引き下がった。一方ドイエはわざわざ日本のTVに出演して「あの試合は私の勝ちだった」と主張し続けた。当然日本人は篠原の態度に好感を覚え、ドイエには反感を持った。
もしこの事件で立場が逆で篠原がドイエと同じ行動をしていたらどうなっていただろうか? ドイエほどではないにしても篠原に好意を持つ人は少ないだろう。
いい悪い、交渉に有利不利は別にして、コレが日本人の「美意識」ではないだろうか。極論すれば「潔さ・謙虚」だ。「なりふりかまわず」はあまり尊ばれないと思う。
「横綱相撲」。
この言葉は日本語で間違いなく賞賛の意味を含む。だから「横綱相撲」とは「なりふりかまわず勝つ」という意味ではない。
相撲は日本の国技といわれる。ならばこそ日本人の美意識、道徳感といったものを相撲には重視して欲しいのである。
横綱たるものけた繰りなどするな。潔く挑戦を受けてたて。
横綱たるもの少々の判定ミスに文句言うな。「自分の相撲ができなかった。だから負けなんです」くらいの潔い発言をしろ。
誤解のないように言っておくが朝青龍が稀有の格闘家であり、相撲史上でも屈指の強者であることは疑いない。見ていてため息が出るほど強い。だが日本人が強者に求める「美意識」は持ち合わせていないことも間違いない。朝青龍が悪いといっているのではない。日本人でない朝青龍が日本人の美意識をもってないのは当然である。
つまり「日本の大相撲に外国人は不要」なのは、あくまで上記の美意識は日本人だけの意識だからである。モンゴルの英雄チンギスハーンが忠臣ボオルチュに語ったとされる言葉「男子最大の快楽は敵を撃滅しその妻妾を後宮に入れ財産を我が物とする事」とは決定的に相容れないのである。
朝青龍は言う。「強いのはいけないことなのか」「これまでの20回の優勝の功績は認めてくれないのか」
日本人は言う。「強ければ何でもいいのか」「心技体揃ってこそ横綱だ」
平行線なのである。揉めないはずがない。
だから相撲は日本人だけでやればいいと思う。
私個人としては商業ベースに乗らなくなってもかまわない。
もちろん日本中の好角家が私と同じとは思わない。
我ながら古臭く、醜いナショナリズム的な考え方だとは思う。
でも朝青龍をどうしても好きになれないのもまた事実なのである。
「日本の大相撲に外国人は不要」
これが私の偽らざる思いである。なぜか。
うまい説明のしかたが見つからないのでひとつの例を出したい。
2000年シドニーオリンピック。柔道100kg超級決勝。
思い出す人もいるだろう。
日本の篠原がフランスのドイエに誤審で負けた試合である。
この試合を見ていた多くの日本人は怒りを覚えただろう。
この試合に関し篠原は「自分が弱いから負けた」とそれ以上言明せず、潔く引き下がった。一方ドイエはわざわざ日本のTVに出演して「あの試合は私の勝ちだった」と主張し続けた。当然日本人は篠原の態度に好感を覚え、ドイエには反感を持った。
もしこの事件で立場が逆で篠原がドイエと同じ行動をしていたらどうなっていただろうか? ドイエほどではないにしても篠原に好意を持つ人は少ないだろう。
いい悪い、交渉に有利不利は別にして、コレが日本人の「美意識」ではないだろうか。極論すれば「潔さ・謙虚」だ。「なりふりかまわず」はあまり尊ばれないと思う。
「横綱相撲」。
この言葉は日本語で間違いなく賞賛の意味を含む。だから「横綱相撲」とは「なりふりかまわず勝つ」という意味ではない。
相撲は日本の国技といわれる。ならばこそ日本人の美意識、道徳感といったものを相撲には重視して欲しいのである。
横綱たるものけた繰りなどするな。潔く挑戦を受けてたて。
横綱たるもの少々の判定ミスに文句言うな。「自分の相撲ができなかった。だから負けなんです」くらいの潔い発言をしろ。
誤解のないように言っておくが朝青龍が稀有の格闘家であり、相撲史上でも屈指の強者であることは疑いない。見ていてため息が出るほど強い。だが日本人が強者に求める「美意識」は持ち合わせていないことも間違いない。朝青龍が悪いといっているのではない。日本人でない朝青龍が日本人の美意識をもってないのは当然である。
つまり「日本の大相撲に外国人は不要」なのは、あくまで上記の美意識は日本人だけの意識だからである。モンゴルの英雄チンギスハーンが忠臣ボオルチュに語ったとされる言葉「男子最大の快楽は敵を撃滅しその妻妾を後宮に入れ財産を我が物とする事」とは決定的に相容れないのである。
朝青龍は言う。「強いのはいけないことなのか」「これまでの20回の優勝の功績は認めてくれないのか」
日本人は言う。「強ければ何でもいいのか」「心技体揃ってこそ横綱だ」
平行線なのである。揉めないはずがない。
だから相撲は日本人だけでやればいいと思う。
私個人としては商業ベースに乗らなくなってもかまわない。
もちろん日本中の好角家が私と同じとは思わない。
我ながら古臭く、醜いナショナリズム的な考え方だとは思う。
でも朝青龍をどうしても好きになれないのもまた事実なのである。
コメント
> 一方ドイエはわざわざ日本のTVに出演して「あの試合は私の勝ちだった」と主張し続けた。
> 当然日本人は篠原の態度に好感を覚え、ドイエには反感を持った。
>
ここの部分は凄く良くワカリます。
篠原って「漢」だなぁ・・・・って、あの言い訳しない所に日本人の美意識があるのだと、私も思います。
朝青龍に限らず、その他の外国人力士はあくまでビジネス
日本の美意識が好きだという観点から、相撲をしている
外国人力士はいるのかな?と良い風に思ってみたいw
僕は、元々古くさいのでw見ていて惚れたあの試合のような
相撲がこれから見てみたいね〜w
海外で発掘してきた力士に最初は、来日の手続きや渡航費用や生活費などを援助する変わりに、将来活躍して大金を稼げるようになったら、ヤクザのブローカーにマージンが支払われる仕組みです。
外人力士にヤクザの影が付きまとってるのはその為ですね。
他のプロスポーツでも同じなんですがね。テニスとかボクシングとか。シャラポワとかもマフィアに大金を吸い取れています。貧しい国から一流選手になる為の環境は誰かが大金を援助してくれなきゃ成功しないですから。
これは文化の違いですね。
フランス人ならわざわざ自分に何の見返りもメリットもないこと言わないのは当然です。西欧では契約社会です。スポーツなら勝敗は審判が判断すること。日本のような世間という概念は存在しません。
イチローが自分のミスで試合に負けた時、インタビューで謝罪しました。
これに全米のメディアは驚いたというエピソードは有名ですね。米国なら自分の非を認めるようなことは絶対にしませんから。
良いか悪いからは審判や裁判官が決めること。世間の声を気にして個人の尊重を失うなうのは日本的な考え方です。
「強いのはいけないことなのか」という言葉をみてわたしが連想したのは村上ファンドやホリエモンのセリフでした。「自分が弱いから負けた」という篠原選手がもし日本人の美意識を象徴しているのなら、傍若無人な横綱がおり彼が外国人だったとしても、彼を否定する前にそんな人間にトップの座を奪われている自分たち日本人の在り方をまず恥じ、日本人力士たちを叱咤の心地で見守るのが正当な姿勢のような気がします。
たとえばもし現在の大相撲から安馬や時天空、旭天鵬や春日王がいなくなったとすれば、「相撲の内容」「取組の水準」自体の大幅な劣化は否みようのないようにわたしには思えます。あらかじめそのように保証された場で四股をふむ日本人力士たちの姿は、きっとかなり醜いものではないでしょうか。インタビュアーから外国人力士の話を向けられて、あぁまたその話かよと面倒そうに答えつつも悔しさを滲ませる魁皇や千代大海の表情がわたしは好きです。それは朝青龍や白鵬がいて初めて見られるものだとも思います。
>リリファームさん
確かに「漢」でしたね〜。でもそんな態度じゃダメだって言う人もいたのは事実でした。
>ノース
彼らにとっては「プロスポーツ」なんだよね。
>ニックネームなし?さん
ふむ。アフリカの少年をスカウトする代理人みたいな感じかな。あの後援会ってのが怪しいんだよね・・・。
>ニックネームなし?さん
ああ、そのエピソードは覚えてますよ。それが世界の常識なんですよね。だから日本人はお人好しといわれることもしばしばですね。
>goodbyeさん
サッカーのように外国人を積極的に招待して日本人のレベル向上を目指すべきという意見はわかります。
ですが相撲の場合、外国人力士が来て取り組みが面白くなったかというと個人的には否です。私の不満はすべてここに帰結するのです。
・・・とはいえだいぶ昔が美化されているとも思います。
正直自分の中でもきちんと理屈がされてません。感覚的に「昔がよかった」という懐古主義かもしれないです。
まああれです。小錦、曙当たりの相撲が大嫌いだったことが根っこにある気がします。(モンゴル人は取り組み自体は好き)